萬養寺の沿革


本尊  釈迦牟尼仏 

開山  大蟠暾龍大和尚 (宝珠寺四世)

開基  毛馬内権之助政氏 (毛馬内家三代目)        法名 長壽院殿覺應智性大居士

開創  慶安3年 (1650年)

開創地 万谷上平 (七滝郵便局上の万谷墓地周辺)

 

移転  嘉永元年 (1848年) に現在地に移転

    嘉永3年 (1850年) 3月24日入仏落慶

移転地寄付  佐々木太左ヱ門 (万谷)

移転篤志寄付 佐々木萬太 (万谷) 成田伊右ヱ門 (毛馬内蟹沢) 池田文作 (毛馬内冠田)

 

寺紋  変わり藪杏葉 (かわり やぶ ぎょうよう)

    南部家は甲斐武田氏族発祥で当初は武田氏紋「割菱紋」後に「対い鶴に九曜」に改める

    毛馬内家は南部氏一門であるが「対い鶴に九曜」より「変わり藪杏葉」に改めたとされ

    萬養寺の寺紋も「変わり藪杏葉」を使用

 

当地がまだ南部領の頃、江戸時代初期の慶安3年(1650年)万谷上平に開創されました。

しかし、境内地が北向きの沢で風致も良くなく、約200年後の嘉永元年(1848)現在地に

移転をしています。

移転後の嘉永3年(1850)3月24日入仏落慶が営まれています。 

 

嘉永年間に本堂、文久年間に庫裡をそれぞれ改修をされたと伝えられその後も度々あったようですが

寺歴としては下記の改修が現在記録されています。

 昭和3年22世 孝圓代、庫裡台所屋根葺替え。

 昭和9年23世 徹玄代、本堂、位牌堂増改修。

 昭和24年24世 元孝代、本堂屋根葺替え

 昭和31年24世 元孝代、本堂増改修、位牌堂改修 

 昭和36年4月30日、類焼により堂宇伽藍全焼

 昭和36年24世 元孝代、庫裡再建

 昭和43年24世 元孝代、本堂再建、境内墓地の整備

   昭和51年24世 元孝代、位牌堂増改修

 平成 5 年25世 孝悦代、庫裡新改修、寺院塀等境内地整備

 

特に、24世元孝大和尚様は昭和12年1月萬養寺に晋住後、老朽化した伽藍の復興に努め

昭和31年の本堂増築に併せて位牌段を当時県内でも珍しかった電気灯明式に増改修し

昭和35年に完成しました。

しかし翌36年6月に落慶法要を控えた4月、伽藍焼失の災難に遭ってしまいます。 

その後、25世孝悦大和尚様が老朽化した庫裡を72畳の大広間を備え、檀信徒の台所等

時代に即した利便性を考えた庫裡に新築しました。

 

地区のお年寄りより伺うと昔は地獄極楽図や十王像もあったようです。 

 

萬養寺は幾多の困難も檀信徒各家に護持され、開創以来綿々と法灯が守られ

今日私で26代目に至っています。  

鹿角三十三観音


6世弧岳祖法和尚様は花輪長福寺11世(中興)として転住後、火災からの再建、更に「鹿角三十三観音札所」を設定し、それに花輪長年寺聖山大真和尚様が御詠歌をつけられました。

 

萬養寺は第28番 「来てみれば  安く養う国ぞここ  五万五万と求む悲しさ」

来てみたら悲しみを背負った沢山の人の心を安らかにするお寺がそこにあった。

という意味かも知れません。

     ~仏様の徳をもって衆生救済を末永く願う寺~ 

荒沢大権現


南部藩の御領分社堂調べによると境内に荒沢大権現様お社があり、祭っていたようです。

今はもう在りませんが、当地では珍しい神社持ちのお寺だったようです。 

又、5、60年程前までは歴住墓地の上に愛宕様を祭ってあり、近隣のおばあさん方が

お参りをしていたそうです。今の境内鎮守竜神様の横に石(愛宕様ご神体と云われる?)があります。

寛永16年(1639)鹿角キリシタン事件)


慶長年間より鹿角秋田(大館)の境界争いがあり、島原の乱以降キリシタンが山中に籠っているとの

風潮があり、幕府より詮索を命じられた秋田藩が大館籠谷より南部領大地へ詮索侵入。

両藩小競り合いの後、両藩当事者の切腹。三代目も寛永19年(1642)切腹。家臣竹沢内匠追腹 と

されています。

開基位牌とのご縁


毛馬内家のものと伝えられる石碑の供養を代々続けていた竹沢家が、現在の菩提寺にある墓石改修に

合わせ、その石碑を新しく五輪塔として竹沢家墓地内に建立し毛馬内家の供養を続けています。

その五輪塔開眼の際、現菩提寺様に代わり萬養寺が伺う事となり、竹沢家と毛馬内家所縁の三ケ寺との

関係や竹沢家ご先祖様の話の後、火災焼失後の仮位牌だった開基位牌に浄財寄進をされ、新添する事が

出来ました。・・・これも開基様との仏縁かも知れません。