毛馬内家については、入城時期、歴代の死亡年月日、更には名前の混在等、諸史歴にも違いがあります。
史実と照らし合わせると、一門の菩提寺大円寺は大湯へ移転後、山号を毛馬内当麻館時代の「当麻山」より、初代秀範の戒名「普門院殿」から「普門山」と変え、大湯をその後領した南部北氏の菩提寺となります。
四代目毛馬内移転後は、二代目政次の弟、(支族)毛馬内三左衛門直次(初代秀範の三男、菩提寺宝珠寺)が
毛馬内を治めます。
その子、九左衛門長次の代に花輪へ、そして八幡平三ヶ田へ知行変えとなり、宝珠寺も三ヶ田へと移転しています。(毛馬内三左衛門直次家は現在も子孫が居られるそうです)
その後の毛馬内は、桜庭家の治める所となり、菩提寺仁叟寺が移されて来ました。
萬養寺開基とされる毛馬内権之助政氏は、萬養寺開創8年前の寛永19年にすでに亡くなったとされ、
萬養寺開創当時存命なのは四代範氏です。
毛馬内はその頃、毛馬内家支族の三左衛門直次とその子九左衛門長次が治めていました。
この史実からすれば、開基と萬養寺開創には年代的な矛盾が有ります。
萬養寺の開創を考えた時、仮に萬養寺開基とされる三代目権之助政氏が存命中から萬養寺建立を発願、又は、四代目が父の弔いの為に亡父を開基とし建立したのであれば、一門の菩提寺大円寺から開山和尚を迎えるのが本筋です。
しかし、萬養寺開山を宝珠寺より迎えている事から、歴代住職からの口伝であり考察となりますが、大湯へ移りやがて家名断絶となる毛馬内本家を愁いた、開創当時毛馬内を治めていた毛馬内三左衛門直次とその子九左衛門長次のどちらかが、最後に毛馬内を領した本家筋の権之助政氏や毛馬内本家の名跡を残す為、又、当時の寺請け制度(人別調べ)の兼ね合いからも七滝村に寺院建立の必要性があり、権之助政氏を開基に奉り、毛馬内家一門の大円寺が大湯に移転された事もあり、自分の菩提寺宝珠寺より開山和尚を送り萬養寺を創建した。・・・これが創建の仮説のひとつかも知れません。
萬養寺の縁起書物を火災消失の今、開創由来を知る術も無く、素人調べのような歴代和尚様方の拙い仮説や長い年月によっての伝え間違いもあるかと思います。
当寺に残されている開基とされるご戒名、史実や年代等とは大きく相違する点もありますが
いずれにせよ、館のあった柏崎から萬養寺への道中七滝村の入り口芦名沢村へ下る所には、萬養寺の名と
同じ名のついて「萬養田」という地名が残され、歴代の和尚さんが「供養読み込み帳」の一番最初に毛馬内家先亡累代諸精霊と読み上げ毛馬内家の供養を続け、毛馬内家とは深い御縁のあるお寺には違いありません。
何かご存じの方はご一報下さればと念じます。