開基毛馬内家について


□ 初代 (天正13年1585亡、盛岡報恩寺)

鹿角は昔、南部領(岩手県)の支配下でした。

毛馬内家の鹿角入りには、南部史要(大永4年1524)や鹿角志(天文5年)など諸説ありますが、大円寺縁起によると天文5年(1536)、南部藩主22代政康公の五男、秀範(毛馬内靱負佐秀範、けまない ゆげいのすけ ひでのり)が、当麻館(毛馬内城、萬養寺の南高台にある昔の毛馬内中学校に石碑あり)に入り、毛馬内知行二千石を領し、毛馬内家初代となっています。

(諸誌には後に信次に改名の説)

 

□ 2代目 権之助政次 (慶長12年1607亡、鹿角大円寺)

慶長13年(1608)、前年の藩主の命により城を当麻館から南方の柏崎(仁叟寺の坂の上、舘)へ移城します。(柏崎城)

但し、移城時期は、政次の死亡は慶長12年や不明説。又慶長19年(1614)大坂冬の陣出陣とあり、

2代目3代目混説?しているのかも知れません。

 

□ 3代目 権之助(左京)政氏(まさうじ) (寛永19年1642、盛岡報恩寺)

(慶長20年(元和元年1615)に一国一城令)

萬養寺の開基とされています。

        

□ 4代目 靱負則氏(範氏のりうじ)(明暦3年1657、芝東海寺)

幼少で家督を継ぐに当たり、津軽秋田藩境の警護には困難があり寛永20年(1643)大湯へ

知行替えとなり、無嗣の為やがて開基毛馬内家は家名断絶となります。

 

□ その後の毛馬内

3代目の後を2代権之助政次の弟、毛馬内三左衛門直次(初代秀範の三男)が領しています。

本寺宝珠寺も大湯より毛馬内へ移転されたと云われます。(その後は花輪、八幡平へと移転)

更に直次の知行変えの後、桜庭家が毛馬内を治めます。